昭和54年09月07日 朝の御理解



 御理解 第76節
 「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」

 助けるという事は親切の心、即ち神心と言うてもいいでしょう。だから人間が助ける事が出来ると言うても、信心でいう助けるというのは、親切心神心をもって助ける。それがもし人間心で助ける条件があって助ける、これは本当の助けにはならない。私人間心ほどおかげの邪魔になるものはないと思う。信心をさせて頂いて段々いわゆる親切な心が育ってくる神心が育ってくる。いうならば神乍らな物の見方考え方、と言った様なものが出来てくるようになる。
 その神乍らなおかげと神心とが一つになった時に、人が助かる程しのおかげになってくる。神乍らというなら神心が一つになる、神心とはなら親切心とま言ってもよい。親切というのは親が子を思う切々心とこう言われる。そういう言うならば心の状態を段々深めていき、そういう働きを広げていくというのが、示現活動に真実参画する事になるのだとこう思うです。人間のいうならば力で、いわば助ける事が出来ないという事が、やはりいよいよ分からしてもらいますね。
 人間心でいうならば神様にお願いをしてやる、というてもこれは人間心で助けようとするのですから助からんです。もう本当に私共の生活の中から、その人間心というのを取ってそして親切な心、いわゆる神心での生活が出来るようになる。昨夜遅くここへ出て参りましたら電話がかかってきた。或る方から娘が夕方からちょっと出てくると言うて出たなり帰って来ない。おかしいなと思ってこう見よったら書き置きをしてある、暫く考え事があるからとか、親の心も親の心が分からんと言えばこんな事でしょうね。
 まぁそれでびっくりして電話かけて見えた訳なんですけれども、神様にすぐお取次さして頂いたら、あのう永瀬さんの『瀬』という字を頂く、サンズイ遍に頼むと書いてあるね、そしてこのクサ冠の茂るという字がありますねを二字頂いたんです。ですから結局あのうサンズイという事は、サンズイとかクサ冠とかいう事は自然という。サンズイとかクサ冠は自然といっも頂きますから、とにかく自然力に頼むという事ね。
 だから天地の親神様に頼むのだけれども、その自然力であるの自然力に頼むのですから、神様に頼むという事はそういう事なんですね。だからいわばその頼む心がですね、いうならば神乍らな心でなからなければ、自然と一体にならない。クサ冠に成るという事は、そういう心で頼んでいけば心配はいらんと、いうならばクサ冠に成るという字が書いてありますから、自然に成るという事自然に成就するね。さあ警察に頼まんならん人に頼まんならんという、その人間心がおかげの邪魔になるという事を頂いたんですね。
 ですからもう本当にどんな心配なときであっても、困った時でもね、もううろたえてはならんと言うのは、そういう人間心を使わずにもう只一心に神様にすがる、いわば自然力にすがる。その一心も一心にすがるというてもね、いわゆる真一心である。私共はそうした一心に願うという時に、ただガムシャラに願うと言うのではなくて、今朝方から私お夢を頂いたが『丁度久留米の町のような所で、私がこう来よったら高松和子先生が、あの小さい店の角口に立っとりますもん。
 あらあんた何しに来たと言うたら、ここはあの合カギを作る所ですから合カギを頼みに来ましたと言うんです。小さい畳一枚位のその店なんですよ、あらこげぇん所にこげな店があった、こりゃ便利だな重宝だなあと言うておるところ』のお夢であった。これはね私共がおかげを頂くというその一つのまぁ要諦ですね、コツというのはね。うろたえたり慌てたりするのではなくて、どういう真をもってすればおかげが頂けれるであろうかと、引けども押せどもおかげにならん時にはね。
 先ずいうならば合カギを作りに行かにゃいかんのです、例えばあの製材所のあの製剤のあのノコをです、人間が押したっちゃ引いたっちゃ動きゃしませんけども、スイッチ一つこう入れるとガアーッと大きな木でもまたたくまに割ってしまうような働きがおこってくるでしょうが、だからそのスイッチをさがす事、真の合カギをさがす事ね。もう本当に信心が高度になり信心が、高松和子というのは高度な信心。
 高松和子先生が高度という事ではないけども、高松とか和という事は、和の和という字ですから、金光教の信心が高度な人と言えばもう決してうろたえない。こういう場合にはどういう信心さしてもらったらという事を一番に考える。そして合カギを頼みにいく、またその合カギを又はスイッチの在り場所をさがす。そりゃ親として子供があのう家出するなんてんちいうならそりゃびっくり仰天しますけどね、もう咄嗟に思わにゃならん事はあの言うならば、自分の真心というか神心というかね。
 をあの恩情でいう親心じゃなくて、本当の親いうならば親切、また親切というのは子供に使うのはも、恩情になりますですね。だからそういう心が他人につかわれる時に本当の親切というのだと思うですね。だから親が子を思う切実心を他人に使う時、いうならばあのう人を助けるというてもそういう心ね、それに例えばあのうもう一番口に人にいうならば、まあ夕べのその事であるならば、まぁいう警察に頼もうとかね、まぁ普通で言うならば病気でいうならば。
 一番口にどこか悪いというともう医者だ、薬じゃという事が頭にひらめくような間は本当の信心、本当のおかげにはならんという事ね。どうしてこういう病気になっただろうね、どうしてこういう悲しい事がおこってくるだろう、どうしてこう言う様な事が、という事をです、私は日頃の信心に物を言わせて分からせてもらう。いわゆる合カギを作ればもうそれこそガチャッとこう音と共に開くようにね。
 今日私は人を助けるという事の中にね、そのう我の我と私が助けたとか、私が導いたとかねまたは条件があったとか、というのでは助からない。神様のおかげで出来るというその心でなかったら親切心すなわち神心、もってするから人を助ける事が出来る。ここでいう人を助けるというのは、そういう内容がいると思うです。ですから今度は自分もまたね、神様に助けてもらう事も出来る。その助けてもらう時にもです今も申しますように自然に頼む自然に成る。
 そういうひとつの確信をもっておくと人間心を使わんですむのです。神様にお願いをする、そのお願いをするお願いがいわゆる親切神心である、自然にたのむ、だから自然に成る自然に成就してくる、何んとも言えない味わいで成就してくる。そういうおかげを人を助けるという事だけではなくて、お互いのおかげを受けるという事の上にも、そういうおかげの成就でなからなければならんと思うです。
 ですから先ず私共がうろたえずに、合カギをね、どういう信心にならせて頂いたら、どういう心にならせて頂いたらという事を先ず思わなきゃならんのに、はぁあの薬というふうにすぐ薬の事が頭にきたり、すぐあの人に頼もう人頼みまたは、昨日の夕べの問題であったらすぐ警察に頼もうと言った様なね、頼んではならんのではない、けれども先に分からなければならんのは、自然に頼むのでなからなきゃいけん。神様に頼むのでなからなきゃいけん。そこからいうならば手立てがついてくる。
 そこにはなら薬がある、または医者がある、または警察があるという事になりましょ。そういう手立てを踏んでいくのじゃなからなければ、自然に成るという事にはならんのです。人を助けるという事においては、尚更のことそういう一つの手立てというか内容があってね、人の難儀を見過ごしは出来ない、そういう神心がですね、まぁ起こって来る様な信心を日頃頂いておきたいと思うですね。
   どうぞ。